私は2003年の9月に中国に行きましたが、当時の野球人気は決して高いとは言えませんでした。
深圳大学には専用のサッカー場、プール、ゴルフ練習場、バスケットコート(屋内、屋外)などお金をかける施設にはめちゃくちゃお金をかけていました。
野球部といえば空き地に毛が生えたようなグランドで外野には大きな石と雑草で劣悪な環境で練習をしてました。
それでも大学から野球というスポーツに触れ、純粋に楽しいと感じている学生が一定数いたのも事実です。
私がコーチを引き受け、最初の全体練習に来てくれた学生は25人ぐらいだったと記憶しています。
その②でも書きましたが、各学部の仲が悪かったので全員が集まっても何かギクシャクしていたのでまずみんなで自己紹介をしました。(中国に来てまだ半年で片言しか話せない私が偉そうに取り仕切ってるのが今思えば凄い事やなと。。。)
球技大会以降、グランドには足を運んでいたし、25人中80%は顔を知っていたので日本語と英語と中国を混ぜながら情熱で語っていました。また「デニス」という3か国語を話せる言葉の鉄人がいたので、彼とスピーチの練習や、ミーティングの内容は打ち合わせして練習に臨んでいました。
練習後のミーティングで発音悪いと周りが「何言ってるか分からんよ~」と中国語で突っ込みをよく入れてくれました(笑)
歳が近かったのもあってみんな気さくで私の事も慕ってくれました。しかし、練習だけは厳しくやりました。
みんな野球は好きでしたが、なんせルールも分かっていませんでしたし、今まで投げ方や打ち方、走塁も教わったことがありませんでしたので本当に素人の集まりでした。けど、反対に「伸びしろ」しかなかったのでやりがいはありましたね。
技術も大切ですが、野球をする上で日本で習った大切な習慣を中国の友人たちにも理解してほしいと思い、ルールを決めました。
・グローブ、その他の道具を跨がない
・練習を始める前と終わる前はグランドに整列して挨拶をする
・全体の掛け声を決めてランニングはみんなでする
・休憩は全体でする。勝手に水分補給を行わない
・練習の最後は円になって練習の振り返りをする。総括は私がする
今思い出せるものでも、この5つは徹底してやりました。この中で難しかったのが「勝手に水分補給をしない」です。
当時のグランドは狭いので全体練習を20人ほどでするのは難しく、私も一人だっため、2班に分けてノックと外周ランニング、筋トレと分けてやっていました。私は、外周を走る子たちに「休憩は全体でやるからな」と言って彼らを送り出しましたが、案の定戻ってくると2名が勝手に水を飲んでしまいました。私はすぐ、ノックをやめて水を飲んだ2名以外を休憩させました。そして水を飲んだ2名にグランド内を走らせました。今なら完全なパワハラでやってはいけないことだと思いますが、当時の彼らにチームワークという意味を完全に理解している子いなかったため、この手法を取ってでも分かってもらいたかったのです。
ピッチャーが牽制球を一塁に投げると、ライトは一塁方向に走り出す。サードゴロの時はセカンドは一塁方向へと、野球は野手が暴投することを想定して先回りし、進塁を事前に防ぐことを徹底します。これを教えるのは本当に苦労しました。
しかし、相手の気持ちを理解出来ないのにカバーにいく習慣なんてつかないと信じ、このへんは厳しくやりました。私も学生時代厳しい練習をしてきましたがその時の仲間は今でも戦友という印象なので彼らもこの練習があったから今も仲良く、そして社会人野球を続けてくれていると思います。(実際チーム作ってやってます)
その他にも投げ方の説明、バットの出し方など練習が終わって夕食を食べてからも宿舎の横で練習したりと毎日野球漬けの日々が始まったのです。
ちゃんと練習を始めたのが確か2003年12月ぐらいだった思いますが、2004年5月に広東省の大会に4チームがエントリーするということでそこに向けてみんな努力していました。
そして、その大会の日が来ましたが実は深圳大学には監督(瑜粱(ユーリャン))がいてまして、その監督が経験者の助っ人を2名連れてきたんです。。。
ユーリャンは日本のプロ野球に少しだけ在籍してたらしく、実際かなりレベルは高かったです。けど、「ほとんど練習きてへんのに助っ人かい!」と、私は憤慨し、当日のスタメンも彼が勝手に決めたんです。
これには流石に私も意見を言わせて頂き「今まで練習みてきて、適正も分かっているのでオーダーは私の意見を取り入れてもらえませんか」と言ったのは覚えています(恐らく片言ですが)
結果的にユーリャンは私の事を信頼してくれ、スタメンは私の描いた通りでしたが結果は惨敗でした。。。
そもそもピッチャーのストライクが入らん!
思った通り、練習初めて4カ月ぐらいではエラー、カバー忘れからの進塁、パスボールからの得点の連発でした。
これでみんなもやるべきことがハッキリと見えたし、更にやる気になった所に朗報が入ってきたのです。何と2004年7月に全国大会が広東省広州で実施されるということでした。そして更に練習に磨きがかかっていくことになります。その④に続く