1年間の留学を終え、深圳大学ともお別れがやってきた。
寮の荷物をまとめ、大学から約1時間離れた宝安区石岩という治安の悪い所へ引っ越すことになりました。会社は父の取引先であるシャディのカタログに掲載されている扇風機やハロゲンヒーターを作っている台湾系の「エアメイト」という大きな会社でした。
私はVIP待遇だったので荷物を運ぶ車を手配してもらい会社の寮まで運んでもらいました。
1年の語学留学を経ての勤務という事で、言葉の壁は無いと判断されいきなり現場に出さされました。そしてここからいよいよ本当の丁稚奉公が始まるのでした、、
私は換気扇事業部という部署に配属され、そこの部長は「久保田さん」という方で、実は私が一番最初に中国に来た時、香港空港にエアメイトの方が迎えに来てくれたんですがその時一緒に車に乗ったのが久保田さんでした。
1年ぶりにお出会いし、ご挨拶をさせて頂きとてもいい方で和やかな時間が流れました。そこで久保さんが私に「ところで遠山くんはここでどれぐらい頑張ろうと思っているの?」と聞かれました。私は父親の会社を引き継ぐ事を決めていましたし、父からは中国生活は最大3年と聞いていたので「王部長にもお伝えしましたが2年間研修させて頂けばと思っております」
このように答えました。その時顔色が変わったのが分かりました。すると見事にその日から私への対応が冷たくなり、最初は通訳として配属されたのですが、すぐに現場を見てきなさいという事で生産ラインに異動になりました。
最初の1カ月はこれも勉強だと思いノートにメモを取り生産工程など勉強していおりました。すると今度は生産ラインに入って実際ネジを絞めたり、説明書を袋に詰めたりと朝から夕方までラインで働く日々が続きました。
「ま、これも勉強やし仕方ないか」と割り切って生産ラインの女の子と世間話をしたり、私が日本人という事でいろんな部署から私を見に来たりするのが面白くて、仕事終わりに現地の子たちとごはん食べに行ったり、みんないい子ばっかりでした。
当時の給料は1600元で現地の子達が1000~1200元でした。当時の新卒給与が3000元ぐらい。日本人の現地採用で私が知っている相場は1万元が一番低く、1万5千~2万元でしたので私の給料の低さは断トツ安かったです。
全ては勉強だし、中国のパイプを作ってくれた人たちの顔を潰すわけにもいかないと思い、頑張っていたのですが、入社してから段々と仕事内容や立場落ちていくと「期待されていない、見放された」と解釈してしまい、徐々にしんどくなってきますよね。東芝の換気扇を作っていたのですが、東芝の方が「あれ?君日本人だよね?久保田さん!こんなとこで日本人働かせていいの?」と久保田さんに言われ「その子はいいんだよ」と私の耳に入った時に私はこれ以上は成長できないなと感じました。
休みは市内に戻り大学時代の友人達と野球したり、日本人の友達とごはん行ったりするんですが「1600元はないわ~」というんですよね。「勉強したいならもっと別の会社もあるし、毎日ネジ絞めたりしても得るもんないんちゃう?」という事を言われ退職を考えるようになります。
2004年9月から働き始めたエアメイトですが結果的には2005年4月に退職することになり次の職場を探すことになります。給料1600元しかもらってないので早く次の仕事を探さないと生活できないのでとりあえず深圳大学に戻り、友人の部屋に居候させて頂くにしました。
次へ続く