私は2003年から2006年まで3年間中国の広東省深圳市に住んでいました。当時、二十歳という若さで単身留学することになったのですが経緯はライオンの親が子供を谷底に突き落とす感じでした。
父が創業した会社の2代目として生まれた私が跡取りとして意識し始めたのが中学生だったと思います。
高校を受験するときに進学校に行くか、産業高校に行くかで悩んでいました。
その時に、高校卒業したら父の会社で働こうかなと思っていたのですが、父から「後から大学に行きたくなったら選択が難しいので進学校に行った方がいいのではないか」と言われ、進学校に進みました。
やはり、進学校なので周りの友人はほとんど大学受験をします。
私も周りに流されて受験したのですが、野球ばかりして、あまり勉強しなかったのでしっかりと不合格通知が来てしまいます。
そこで、1年間河合塾の寮に入り、浪人するんですが、「とりあえず父の会社を継ぐことになるだろうから経営学部に行こう」ということだけで大学を目指していました。
関西ではお馴染みの、関関同立を目指すのですが目的は経営学を勉強することで、どこの大学に行くかはあまり気にしていませんでした。
結局、あまり勉強に身に入らず、産近甲龍に切り替えて受験したのですがずっとA判定だった京都〇業大学にも受からずどうしようという状況になりました。
そこで父から「お前を跡継ぎにする条件は中国で2年間生活をしてくることや」と伝えられ、私の人生は急展開を迎える事になりました。
今思えば、父から進学校に行くチャンスを貰ったけど活かすことが出来なかったという意味では父に感謝しているのですが、やはり当時は中国に一人で、しかも全く言葉が話せない状態で行く。さらにテーマは「生きて帰ってくる」ですから中々の環境でした。
しかし、私は何とかなると思い父の取引先の家電メーカーが広東省深圳にあるということでその会社の社長と部長を紹介してもらいました。
台湾の会社で「艾美特(AIRMATE)」という大きな会社に丁稚奉公することになりました。
関西国際空港から出発し、香港空港に着くと通訳の方が迎えに来てくれていました。とりあえず日本語が話せる方でしたので安心して荷物を持って車に乗り込みAIRMATEのある工場に向かうのでした。
「シーさん」という当時20代後半の方で、気さくに話をして頂きました。後で知ったんですが、会長の息子さんでめっちゃ偉い人に来て頂いてたんだと知りました。
空港を出ても待てど暮らせど到着せず、景色も段々と田舎になり、道路は砂だらけ、すれ違う車は泥だらけ。。。あたり一面茶色で「えらい所やなー」と思ってるとようやく到着しました。空港から3時間ぐらい経ってたと思います。
到着すると、やたら綺麗で広い私の部屋を案内してもらい、荷物を置くと社長始め、役員の方に一通り挨拶を済ませ、部屋で休んでいました。
到着した日の夜は、役員の方たちに歓迎会ということで食事に連れて行って頂きました。現地の料理屋では綺麗で豪華な所だったと思いますが、始めての食事の感想としては水や料理が臭いという印象でした。
深圳市でも当時は経済特区内と経済特区外とあり、経済特区内に入るのには身分証明書が必要でした。外国人の場合はパスポートを毎回見せて、出入りしていました。
ちなみにこのAIRMATEは特区外の宝安区石岩という所にあり、当時はかなり治安の悪い所でした。
緊張と疲れもありその日は帰って休みましたが、翌日から暇の連続が続きました。3年間中国に住んでいましたが3年間の中でこの1週間が一番苦痛だったのを今でも覚えています。
翌日から「シーさん」も仕事があるため私にかまってられないですよね。「とりあえず会社の中ブラブラ見学していいよ」と言われていましたが、会社といってもめちゃめちゃ大きいんですよ。
そして、言葉が全く話せないので人と接触するのが怖くてずっと部屋に閉じこもっていました。
日本から持ってきた携帯電話のゲームをしたり、友達とのメールを見直して若干ホームシックになったり、、
食事の時間になると台湾人の役員方が食堂に帰って来られるのですが、数名が日本語を話せたのでその方たちと少し交流するぐらいしか会話がありませんでした。(やっぱり1日言葉を発しないと病みますね)
5日目ぐらいにようやく、深圳大学という所に見学と入学手続きをしに行こうということで、日本語話せる現地の方と一緒に大学に行くことになりました。
いよいよ留学生活が始まりますが続ぎはその②にて