2003年9月に中国へ渡り、1週間ほど経過したある日、深圳の南山区にある深圳大学に留学手続きすることになりました。
AIRMATE(私の丁稚奉公先の台湾企業)から日本語話せるスタッフの方についてきてもらい、入学の手続きを済ませました。
実際、100%言ってること分からず、とりあえずサインして、とりあえずお金払ったという感じでした。
日本から両親に40万の現金を渡され、キャッシュカード、クレジットカード持たされず来たので、この現金が無くなれば終了でした。。
当時、本当に無知でこの金額でやっていけるかどうか、当時の物価の下調べなどあまりせずに来てしまっており、中国だから安いだろうと思っていた節がありました。実際、2003年はまだ物価は安かったですが、入学や寮のお金を払うとほとんど手元に残りませんでした。
当時、私は経済特区外の宝安区石岩という超絶治安悪いところからバスで大学まで通っていました。
中国のバスは下りる駅がやってくると大きな声で「有下(ヨウシャー)」と言わないとバスは止まってくれません。私は何度も駅を通り過ぎたこともありますし、ビビッて1つ手前の駅で降りてしまい、歩いて家路についたこともあります。
そんな大学生活を10日ほど過ごしているとある日本人と知り合いました。
彼の名は「林君」といい、中国に来て4年が経過しており、留学2年後、深圳大学の本科生として3回生になったばかりの人でした。そんな林君に色々と教えてもらえたことで、私の中国生活が一変します。(ほんまに命の恩人で今も大切な友人です)
・宝安の石岩から中国に来て1週間しか経ってない日本人がバスで通学することは危険すぎる
・絶対寮に入った方がいい
・野球やってたなら野球愛好会があるから入部すると友人が増える
・授業以外にも友人沢山作って、遊ばないと勿体ない
・中国語を学ぶなら発音を徹底的にやったほうがいい。文法はいつでも学べるが発音は変な癖がつくため
などなど。。当たり前のことである。
父の取引先の関係で、「あまり自己主張したらあかんかな」と思っていたところがありました。けど、やっぱり大学生活楽しみたいと思い、AIRMATEの社長に相談したら二つ返事で「いいよ」と快く車をチャーターしてくれて、会社から大学の寮まで引越しの手伝いをしてくれました。ほんま有難いことでした。
これでやっと危険な通学から解放された私は水を得た魚ように遊びまくるのである。
その前にお金がない事に気づいた。そして携帯電話がないと不便。そもそもキャッシュカードないのでもう生活が出来なくなっている。こんな状況のため、林君に携帯電話を借りて、親に電話をしてとりあえず10万円を林君の口座に振り込んでもらうことにした。
出会って3日の日本人の口座にお金を振り込む両親は相当心配だったようだが、そもそもカードを持たず、海外に来たのも事実。そこは信用してくれて気持ちよく、中国元に換金してもらい、4か月間は何とかなると思いました。
生活できる目途がたったので、とりあえず野球部の見学にいきました。狭いグランドで両翼60mぐらいの赤土でバックネットはボロボロの環境で30人ぐらいがソフトボールやってました。
ちょうど大学の球技大会前だったらしく、いくつかの学部がソフトボールの練習試合をしていました。
その内の何人かは野球のユニフォームも着てたので野球部かな~と思いながら近くで見てました。
正直、レベルは地元の少年野球のレベルで、見てたら教えたくなる状態でウズウズしてきました。そして、ついに声をかけてしまいました。「I want to play baseball. i’m japanese」 すると一人の女性が私を打席に立たせてくれました。
ソフトボールで球も遅かったので1打席でライトのフェンス超えていき、ホームランを打ちました。すると「あいつ誰や!」みたいな空気になり、一瞬でヒーローになった気分でした。あの1打で私の周りに人だかりが出来、球技大会の助っ人合戦が始まりました。
最初に声を変えてくれた女性は「文学部」だったようで、後に私の親友となる「デニス」という友達も文学部でした。文学部のみんなからはとても可愛がられて練習後も良く食事に行ったりと良くしてくれました。
しかし、他の学部(特に理系)からはよく思われてなかったみたいで、結局、球技大会の日は留学生の出場禁止というルールができてしまいました。(その前年までは普通に出れたみたいですが)
けど、大学の寮に入ってから、午前中は授業、午後から図書館で勉強。夕方から野球かソフトの練習という毎日がとても楽しく気がつくと周りに多くの中国人の友人が出来ていました。
留学生は日本人も沢山いましたが、一番多かったのは韓国人でしたね。あとはベトナムやタイ、ナイジェリアの人もいましたね。彼らは授業が終わると留学生同士でどこかに行ってたそうですが、私は現地の大学生と毎日一緒に過ごしていました。
また、夜は友人の寮に一緒に帰り、DVD見たり(ラストサムライ、プライベートライアンは中国で見たな、、)サムライスピリッツやウイニングイレブンなどゲームも一緒にしたりと、夜中まで遊んでました。
まだ1カ月ぐらいしか中国で生活してないので言葉はほとんど分かりません。けど、日本語学科で学んでる子も同じ寮にいたのでその子が通訳してくれたり、反対に中国語を教えてもらったりと、みんないい奴ばかりでした。
朝から夜中までずっと中国人といるので他の留学生より圧倒的にリスニングと喋りは伸びました。
ちなみに午後の図書館の勉強は「互相学習(フーシィアンシュエシイ)」といって、1時間は日本語を教える。もう1時間は中国語を教えるという感じで、2人で言葉を教え合うという勉強でした。私はこの1時間を徹底的に発音に当てました。日本語で言う50音をひたすら1時間言い続けるのです。
その中で綺麗に発音できている言葉に〇。微妙は△。聞き取れない場合は×。という感じで綺麗に発音できるように練習しました。ちなみにこの相手は女性で3人の方と曜日を変えて勉強していました。
当時は、この勉強方法がすごい人気あって、やりたいという方が多かったんですよね。友人のデニスに相談したら紹介してあげるという事で2人紹介してもらって、一人は林君から紹介してもらいました。
恋愛に発展するかと思いきや、私の方はそこまで気持ちがいかなかったけど、一人ワンリンという女性からアプローチされたのはいい思い出です(笑)
こんな感じで大学生生活を過ごしていたのですが、球技大会で私のことをよく思ってなかった学部の子達が私の所にやってきて「野球を教えて欲しい。来年5月に全国大会があるんだ!」ということで私にコーチの打診に来ました。
私も結構、意地悪されたので言い返したかったけど1つだけ条件を出しました。実は、野球をやりたい子は結構いたんですが、理系と文学部が仲が悪く、あいつらが野球やるなら俺たちは別のスポーツする。という子が結構いました。せっかく野球が好きなのに勿体ないと思ってました。
そこで「みんな一緒に野球やるならコーチやっていいよ」ということで条件を出しましたが、その後双方の学部は仲直りすることになり、みんなで野球の練習が始まりました。
そして私の地獄の練習が待っているのでした。その③へ続く